昭和43年1月6日 夜の御理解★★


御理解第47節「祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならぬ」
48節「わが子の病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言うことを聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ。おかげが受けられる」



 御理解47節と48節を聞いてもらいましたんですがね。ここのところが、私あの、ほとんどできていないような気がする。これは、私は、祈れ薬れということはあの、病気の時だけの事じゃない、と。ね。これはもう、一事が万事にそうなってくる。私どもが、事々に、ね、薬れを先にする。人情を先にする。人間心を先にする。医者じゃ薬を先にする。
 これは、「祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならぬ」とおっしゃる、そこんところが。ね。人情の方を先にする。ね。信念的な動きでないということなんです。ね。まず、神様にお願いをして、と。ね。とにかく、人情の方は捨て切って、医者じゃない薬じゃない、と。これは医者、薬のみじゃないですよ。ね。
 あの人に頼む、この人に願うといったようなものじゃなくて、ほんとに、神様一心におすがりして行くというところから、この信念的な、その動きができてくる。ね。そこから、おかげが受けられる。48節も同じ。ね。
 わが子が病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえる。枕元に付っきっておる。それではおかげにならん。ね。言うことを聞かん時に、ままよという心になることがある。知らんぞと思うことがある。そういう心で信心してやれとおっしゃる。ね。これは、人事百般の事に、これを当てはめたらいいのである。ね。
 ままよという心になって、信心してやれ、信心させて頂けということである。ね。これはその、両方とも、子供の病気とか、あの、病気の事についての御理解なのですけれども、御理解のこの精神と言うものは、病気だけの事じゃないのです。ね。慌てふためいているからおかげにならんのだ。うろたえておるからおかげにならんのだ。ね。
 心情一遍、自分の信念そのままに動かしてもらう。ね。そこから決断がついてくる。そこから、すきっとした、すきっとしたおかげを受けられる。私その事とこの事どういうふうに、あの、繋がりがあるか分からんのだけれども。
 今あの、御神前でですね、これはあの、(?)の高山さんの、息子の嫁ですが、私この人に感心することはですね。この、吉井のちょっと手前にから来てるんです。その盆とか正月とかいろいろその、まあ節句とかで休みで、里に帰りますとですね、必ずその、赤ん坊、その背負ってお参りして来るんですよ。「あら、今日は僕と二人ね、いつもお母さんと自動車で参って来るんですけれどもね」て言うと、「ええ、里に帰らせて頂いておりますから」とこう言う。
 ほんとは里に帰ったら伸び伸びと休みたい時でしょうが、普通は。ね。それけん、里が教会の側じゃから、と言うふうではないですよね。「里に帰らせて頂いとりますけんで、明日まで留守で、明日はまあ一本おかげ頂きます」とこう言うて帰る。これはですね、あの、ほんとにあの、やっぱりお母さんの教導だと思うんですね。
 例えば、そういうような信心です。ね。寝とって良かごたる時にさしてもらう信心。休んどっても良かごたる時に行かしてもらう信心。最近、頂いた御理解の中にです、ね、有り難い有り難いと言うておるが、有り難い有り難いと言うておるとが、ほんとにそれを思ておる。けれども何か、ちょっと事に直面すると、いわゆる、医者じゃ薬じゃということに、先になったり、さあ子供が病気をすると、うろたえたりするとと同じようにです、何かちょっと事があると、情けなくなったり腹が立ったりすると同し事なんです。ね。
 そういう時にです、いわゆる、医者じゃ薬じゃと言わんで済む、いわゆる、薬れ祈れではなくて、祈れ薬れができるように、ままよという心になって、すがってやれというような信心がです。そういう時に、できなければならんのに、何か、自分の都合の悪いとか、ちょっとしたショックを受けると、寂しくなったり腹が立ったりするということ。「はあ、これは、昨日の有り難い有り難いと言うておったのは、ほんなもんじゃなかったろうなあ」と言うて、まあ悟るわけなんだけれど。ね。
 そして、そういうような事を心中祈念の中に、感じておる、考えておったら、神様からね、★「大平ムード」とこう頂いた。おおひらムード、大平ムードと書く。ね。ほんとに、確かに信心さして頂いて、もうほんとに平穏無事、「今日もおかげで、おかげを受けまして有り難うございます」と言うて、その有り難うございます。確かに、もううそじゃない。ほんとなんだ。ね。大平ムードの時をです、大事にしなければいけない。
 いうなら、私今日、その高山さんに( ? )ですね、参ってくる姿を頂いたんですよ。だから、それがだから御理解だな。しかしこれは説きようがない、どういう説いたら良かろうかと思て、今、例によって、まあ御理解集を、この教典を開かせて頂いたら、まあ、47節48節を頂いた。全然関係がない。二つとも病気の事なんですから、けれども、この御理解の精神と言うもの、ね、これを信念的に、これはこうあらなければならないぞ、と言う御理解なのですね、だいたいは。
 だから、ははあ、この二つを、今私が、こう結んで皆さんに聞いてもらっておるわけなのです。ね。そういう、いうならば、大平ムードの時にです、ね、私はほんとの信心ができなきゃならない。もう今日は、里に帰ってそれこそ、伸び伸びと、もう孫はばばさんに、預けといてから、「もう私は、一時ばかり休ましてもらうばの」と。「私は今日、ちょっと友達のとこ行ってくるよ」と。まあそれでいいのだけれどもです、ね、やはり、お参りを先にしてこらないかん。
 これはあの、もう、あそこに(?)きてから、あそこで、あの、一家中が、ああして信心をするもんですから、付いて参って来られた事からもう、ほんとに何と言うですか、もう抵抗なしに信心に入って来るんです。そしてその間に、もうそれこそ、あの姑親との間は、もうどうこうとされんごと、良かごとおかげ頂いてるです。
 ところが、主人が、なるとがちょっと飲んだり、時々は、その、そんな事でいいですかなで、もう一人息子で、両親が頼ってござるけん、あなたそげなこってあっちゃいけません、言うぐらい(尊敬?)するごたるところがあるわけなんです。他には悩みないけどそれがある。もうそういう事もあるけんか知らんけども、「もう、ひできがひできが」と言うて、ひできの事をお願いに来るんです。ね。
 「ひできさんがおかげ頂きなさらなきゃ、高山の家が立ちませんから」と言うてその、ひできの事をお願いする。ひできの、ひできと言うて、もう母親のような、母性愛の凄楚(せいそ)ですねきっと。ね。それを頂いて、んならこれとこれを結び付けてから、あの、そういう時に、ね、遊んどっても(?)とっても(よういだ。?)そういう時を、私は大事にする信心が大事だと。
 ★今私がその、「大平ムード」ということを頂いた時もです。ね。その(大平ムード?)の横に「土」と言う字を頂いた。平たいという字の横に。そうするとどういうことになるかと言うと。なりますかね。平たいと言う横に土を付けますと、「坪」と言う字になる。ね。そうするとそれは、「大坪ムード」と言うことになる。
 これはまあ皆さんが、ここへ、まあ何年か参って来りゃ分られるようにですだよね。私はほんとに、そういう大平ムードの時を大事にするですもんね。ならそして、私の場合です。その何かと、人が、んなら暗い心になったりです、情けなかったり腹の立ったりするような時を大事にいたします。ね。そして、そういう時にいつも信心を、いわば、日頃できなかった信心の飛躍を、そういう時に遂げておるです。
 いわゆる、私は、いわば、その平たいと言う横に、土の付いた信心をさして頂いておる。それが大坪ムードだ、と。それがいわば、合楽の信心なんだ。それが精神なんだ。合楽の。ね。そういう信心をです、身に付けていかなければならない。ということであろうと私は思うたんです。ね。
 高山さんの嫁子が里から参って来る。その事と、今、私が皆さんに聞いてもろうた47節48節をです、これはうかつにして聞くと、「母は病気の時にこげな風ばいな」と。ね。薬の事を先言わずに、まず祈らにゃいけんばいな。まずお取次ぎを頂いてから、例え薬を飲んでも、まず、神様にお取次ぎを頂いてからでなかにゃいけんな、と。ね。
 さあ、かわいい子供が病気した時に、うろたえちゃあならんぞ、と。こういう時にこそ、ままよという心になって、だけじゃいかん。「ままよという心になって、信心してやれ」とこうおっしゃる。こちらの事は棚に上げて、放任して、そして、神様へすがってやるとおかげになる、とおっしゃる。ということも、病気の時のようにあるけれども、病気の時ということでなくて、この御理解の精神と言うのは、そういうような、今日私が申しましたようなことを、説いておられるのじゃなかろうか、とこう思います。ね。
 今朝から、寒修行に入っております。まだ徹底しておりませんけれども、やっぱり、こうお広前いっぱいに、今朝も集まって来て、今日の寒修行を頂いております。だからその寒修行と言うのが、ただ朝早起きをして、お参りをして来るというだけではなくてです、今日神様がですね、ちょうど、あの、ハスの葉やらイモの葉に、朝露が溜まりますね。水晶のような、こう水の玉のようなものが溜まるでしょう。
 私ども少年時代に、あれを集めては、手習いの稽古をしました。七夕さんの時なんかは、あれでその、七夕さんを書きました。短冊を書きました。ね。ですから、朝の御祈念にお参りをして来るということはです、ね、いうならば、朝露を取りに来るようなもんだから、修行はこれからなんだ。苦労するのはこれからなんだ。今日一日をです、朝の御祈念の生き生きとした、いわゆるあのムードを一日の中に、織り込んで行くのだ。
 どういうことがあっても、それを信心。その事を通して、信心を分らして頂く稽古をするのだ、と。というような、今朝御理解を頂きましたがね。何とはなしに、夜の御祈念にお参りをして来る人は、何とはなしに、確かに大平ムードを感じますですね。ね。だから、その、まあいろいろなその、事情もございましょう。けれども私、今朝から皆さんに申しました。
 私も、まあ修行に入る中、少し変わった、とこう思った。それで30分間早起きさせて頂いてから、まあ、30分間早く、ここへ就かせて頂こうとこう思った。ほんであれこれを、早く起きましたから済まさせて頂いて、ここへ座った。もちろん、御神燈が点いておるだけでお広前は真っ暗です。
 誰かそこで御祈念をしておられる。「あらもう誰かが参って来ておるばいのう」と思て、電気を点けましたら、秋永先生であった。前の晩は、ちょうど12時半まで、壮年部会で御用を頂いて帰られた。それがもう、いわば、私がここへ出る前にもうここに出て来ておられた。いつ出て来られたか知らん。
 して見るとですね、遠いとか、夕べ眠っていないからとかというようなことは皆さん、理由にはなりませんね、と言うて、今朝は皆さんに言うたことでした。問題はその気があるか無いかだけなんだ。ね。そうして、修行し抜かせて頂いてです、一月なら一月経ってみて、なるほど、自分ががんばったんじゃなかったな、ということなんです。ね。神様からがんばらせて頂いておったんだな。神様からおかげ、お参りさして頂いておったんだな。修行さして頂いておったんだなということをです、感ずる信心。ね。
 そしてこの寒修行中に、どうでも、今まで無かった、いわば力と言うか。今まで無かった、自分にこういう、いうなら、ものが自分の内容にあった、ということを分かるくらいな、一つ修行さして頂こうじゃないですか。ね。
 喉を使う人達が寒御用と。ね。少しおがると、もう、声がじゃら声になって、声が止まってしまう。けれどもそこを、いわゆる寒中に、あの、片の瀬のシアターなんかに、ずらっと出てね、昔の芸子さん方はそうでした。川のどぶの流れをその、川の所へ入れて、寒御用と。
 そうすると、なるほど、これから血を吹き出すように、その、痛むそうですけれども。その後はです、もう、いくら恨んでもいくら恨んでも、(心残りが?)確かにあるのはある、誰にでも。それを出し切らないだけなんだ。
 朝起きができると決めてしまわずにです。ほんとに、朝起きの徳を受けたらです、もう起きらにゃおられんごとなってくる、という力と言うか。ね。これだけの事じゃありませんが。様々の上においてですたい。自分に今までなかった、かつて味わった事のなかった味わいとか、これが力であろうかというような力をです、その修行中に頂こう。
 今日、皆さん、たいへんお参りが多いが、まあ、寒修行に入ったから、まあ寒修行のつもりで皆さん、参って来とるのだろうとこう思うけれど。ね。さあ、それでも、日頃参らんとが参って来るのですから、やはり一つの工夫ですから、やっぱ修行に違いはない。
 けどもせっかくさして頂くならです、いうなら、その朝のね、いわば清々しい。ね。清々しいと言うか何と言うかね。いうなら、「大坪ムード」の中に、私は信心の稽古をしたら、ほんとの信心ができる。ね。
 夜の御祈念は何とはなしに、大平ムードである。ね。同時に、今日私、皆さんに聞いてもらったこと。うん。(途中切れ)


明渡 孝